「東京都青少年の健全な育成に関する条例」に関して

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非実在青少年。どういう意味だろう。
「不在地主みたいなものか?」
「むしろ無産階級かと。不在小作人。でなければ透明労働者?」
「前衛気取りのたわごとだろ。可塑的必然性みたいな。70年代に流行した思わせぶりのパラドックス。それだけの話さ」
「ズバリ” Nowhere man “だな。ビートルズの歌にある。邦題は「ひとりぼっちのあいつ」。イエローサブマリンの主人公にして自失したインテリの象徴。具体的にはナリのデカい迷子ってとこかな」
「不登校の言い換えかもしれないぞ」
「素直に読めば無戸籍児童の成れの果てだろ。無戸籍で無国籍な法令上のブラックホール。人権のエアポケット。哀れな……」
「違うね。正反対。非実在青少年は、子ども手当受給のために近未来の悪党が捏造する実体を伴わない戸籍だよ。戸籍上だけ存在する幻の扶養家族。クニに置いてきたとか言って、山ほど申請者があらわれると思うね」
「普通に虚無的な若者の自分語りだよ」
「確かに、虚無的な連中に限って自分が大好きだったりするからな。で、私は実在しないだとかなんだとか、そういうポエムを書くわけだよ。ぐだぐだと」
「で、永遠に自分探しをするわけだ」
「名刺の住所が『旅行中』だったり」
「永遠のジャック&ベティ」
「おお、ジャック・ジョーンズ。懐かしい」
「『ぼくは少年ですか?』という奇妙な質問をいまだに繰り返しているんだろうか?」
「ぼくは不在ですか、ってか?」
結局、「非実在青少年」は、字面だけでイメージを確定できる言葉ではない。
あまりにも意味不明。というよりも、多義的過ぎて着地できない。
調べてみると、これは、東京都がこの3月に都議会に提出した「東京都青少年の健全な育成に関する条例」(青少年育成条例)の改正案の中に出て来た言葉で、その意味するところは、「漫画やアニメに登場する18歳未満のキャラクター」らしい。30日に本会議で採決され、可決されれば10月から施行となる。原文は以下の通り。
「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に関わる非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害する恐れがあるもの」(「東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例」第七条の改定案より。第七条は「不健全な図書等の販売等の規制」を扱う箇所。改正前の同条例はこちらから)
条例の改定案は、児童ポルノを規制する内容を含んでいるものなのだが、その施行にあたって提案者側は、「実在していなくても、全体として青少年(18歳未満)の特徴を備えたキャラクター」、すなわち、「非実在青少年」を性の対象として描写することを禁じなければ、実効ある規制にはならない、と考えたわけだ。
萌えイラストやCGの少女が性行為をする、みたいな作品は、たとえ現実の子供が被害者になっていなくても、その作品を見ることになる青少年の健全な育成にとって有害であるがゆえに規制せねばならない、と。
規制推進派の見解から私が読みとった限りによれば、現行の法律でマンガやアニメに網をかけるのは難しいらしい。なんとなれば、架空のキャラクターには「被害者」が実在しないから。さらに、架空のキャラクターは児童ポルノ法で取り締まる際の構成要件である「18歳未満」と特定することも難しい。作品の中ならばどうみても学童年齢の少女に
「私は175歳です」
と言わせることもできるから。そこで作中の設定はどうあれ「見た目が18歳未満ならば、取り締まりの対象にできる」ということにした。
なるほど。
つまり彼らは、萌えイラストを法の網にかけるために、新しい概念を発明したのだね。
非実在青少年。なんというバーチャルリアリティな情熱。
もっとも、条例案は、実在しない青少年の人権を守ろうとしているのではない。いくらなんでもそこまでブッ飛んではいない。むしろ、バーチャルなキャラクターを仕立てたおとり捜査に近い(なお誤解がないように言っておくが、もちろん問題は「性交又は性交類似行為に関わる」描写にあるわけで、普通に非実在青少年のイラストを描いただけで条例違反というわけではない。うむ、今回のイラストは明らかにおとりだった。すまない)。
*     *     *
21世紀の文明国は、各種の「変態」的な性描写について、寛大に構える傾向にある。
つまり、「どんな種類の性的偏向であれ、同好の士が閉じたサークルの裡で楽しんでいる限りにおいて、お上は、あえて規制には踏み込まない」というのが現代的な流れだということだ。サディズム、マゾヒズム、同性愛、各種フェティシズム、あるいは、「○○専」という言い方で分類される畸形的な倒錯傾向であっても、表通りに出て来ないのであれば黙認される。勝手にしろ、と。
別の見方をするなら、自らの性的嗜好のうちに何らかの逸脱傾向を内在させている人々は、意外なほど数が多いということなのかもしれない。となると規制なんか不可能だぞ、と。さらに踏み込んだ言い方をするなら、「変態」についての問題は、「欲望の分野に『普通』なんてものが存在するのか?」という非常に厄介な問いを含んでいるわけだ。
あるのだろうか?
私は答えを持っていない。というよりも、私の「普通」が、世間の「普通」とどんなふうに違っているのかについて述べることが、そもそも「普通」ではないということだね。
語ること自体、変態ですよ。
児童ポルノは話が別だ。これについてはどこの文明国でも特殊な扱いになっている。というのも、児童ポルノが対象としている性的なターゲットは、「同好の士」ではなくて、われわれの子供たちだからだ。
当然、話はSMクラブや出会い系におけるあれこれとはまったく違う展開になる。子供という無防備かつ回復不能な存在に対して、性的な行為やトラウマを刻印することは、誰であれ、許されることではない。でなくても、児童ポルノは、「趣味の問題」として相対化できるカテゴリーではない。どこの国でも明々白々たる犯罪として当局の取り締まりの対象になっている。当然だ。
さて、それでは、絵に描いた児童を性的な対象とする作品を、我々はどう評価すべきなのだろう。
これが、今回の論点だ。

「別にオッケーなんじゃない? 被害者いないんだし」

「いいえ。問題は被害者の有無ではありません。児童を性的に扱うという趣味性のおぞましさそのものが問題なのです。絵であれCGであれ音声であれ、子供を性的な関心の対象とするということ自体が規制されなければ、問題は解決しません」

と、議論は、おおよそ二つの方向で闘わされている。

日経ビジネスオンライン読者の多くは、「規制」の側に重心を置いている、と、私は推察している。平均値としては

「規制は当然。ただ、表現の自由を抑圧しないように注意を払う必要がある」

ぐらいだろうか。

規制に原則反対である人でも、ブツを見せられると、規制派に転向する組はけっこういるはずだ。

そう。見たことの無い人がはじめて現物を見ると、あれはとてもキツい。目を疑う。っていうか、直視をはばかる。そういう描かれ方の代物になっている。全部がそうではないという人もあろうが、そういうものはない、と言い切る人はいまい。

だから、こういう物件を見せられた上で、

「こんなものが必要だと思いますか?」

と問われたら、たぶん、子を持つ親のうちの九割は、一も二も無く

「不要」

と答えるはずだ。

「不要であるのみならず有害かつ不快。よって、こんなものはただちに消去すべきです」

と、怒りをあらわにする向きも、少なくないはず。当然の反応だ。学齢期前に見える子供がマジな性行為を強要されている絵柄を見て、それでもなお利口ぶってリベラルな表情を浮かべているのは、やはり特殊な人間だ。

が、私の思うに、真の論点は、露骨な描写の漫画作品を見てどう思うかというところには無い。

というよりも、ここを論点にしてはいけないのだ。

間違いの元。ヒステリーの焦点。場が荒れるだけだ。

児童ポルノ作品が、多くの一般人にとって不快な存在であることは、これは、議論以前の問題で、見ればわかることだ。誰だってあんなものを学校の図書館に置きたいとは思わない。

が、それを規制するということになると、それはそれで厄介な問題が別枠で浮上する。現在、問題になっているのはそこだ。

規制に反対する人々は、規制の倫理的根拠に疑義を表明しているのではなくて、むしろ規制がもたらすであろう弊害について懸念している。ゴキブリを駆除するのにナパーム弾を使うのは、過剰反応ではないのか? と。ここのところを見誤ってはならない。

改定案への意見具申を行った、東京都知事の付属機関である「東京都青少年問題協議会」の専門部会の議事録(こちらから)を読むと、悪質な児童ポルノ作品を資料として机の上に展開しながら、委員の人々が、次第に冷静さを失っていく様子が目に浮かぶ。

ああいうものを見せられて、それらがネットや携帯電話などを介して小学生でもアクセス可能、という前提の中で話をしていれば、当然、議論は過激化する。

でも、現実社会でも同じことだが、「到達可能」であることと「あえて踏み込む」ことの間には、相当な距離があるものなのだ。

リアルな世界でも、小学生が歌舞伎町を訪問することは可能だし、バスの切符(パスモ?)を買えば新宿二丁目で降りることだってできる。が、だからといって、「歌舞伎町を浄化せよ」だとか「二丁目を焼き尽くせ」と言う人はいない。ん? 石原都知事が言ってた、と? では言い直す。よほどアタマがアレな人でない限り、青少年にとって有害だからみたいな理由で現実の町を消そうと考える人間はいない。

とにかく、実際問題としては、「子供の目に触れる可能性がある」ということと、「子供が見る」ということは同じではないし、まして、仮にそうした有害ポルノが子供の視野に入ったのだとしても、だからといって、それがただちに彼らの性的な嗜好を決定するものではない。風俗街と同じことだ。そういう場所には、いつしか、子供が寄りつかなくなる。で、「あえて地雷を踏みに行く人」だけが歩く町になる。それで良いのだ。

議事録を拝読して思うのだが、委員の皆さんは、欲望と愛情を、正反対の概念であると考えているのかもしれない。でなければ、「愛情が介在すれば欲望は浄化される」ぐらいに。あるいは、「たとえ結果として性行為を志向する精神作用であるのだとしても、愛情に根ざすものは『情熱』と呼ばれるべきで、『欲望』などと表現すべきではない」てなところで両者の融和をはかっている可能性もある。

が、愛情と欲望は、同一物でこそないものの、異母兄弟ぐらいな存在ではある。いずれが兄であるのかは言わないが。

ショーペンハウエルは、こう言っている。

「強姦によろうと結婚によろうと、神の目から見れば子供を産むという同じコースでしかない」

いや、私は愛情をクサしたくてこんなことを言っているのではない。ただ、世の中に「正しい性欲」と「変態性欲」があるとする立場に若干の疑義を表明しているだけだ。

欲望の傾向について言うなら、せいぜい多数派と少数派がいるというだけで、少数派のバリエーションについていうなら、われわれの想像力の及ぶ限りのものはすべて揃っている。そういうものなのだ。

恋愛の世界でも、「正しい恋愛」と「道ならぬ恋」は、なだらかな境界領域をはさんでほぼ並立している。人は自分にふさわしい相手だから惹かれるわけではないし、交際してメリットがあるという理由で恋に落ちるのでもない。だからこそ人々は、時に他人の配偶者に慕情を抱くのだし、上司の愛人のメアドみたいな地雷だらけのトラップを無視できなかったりするのだ。さよう。この道に正解は無い。

児童ポルノについても同断。

世間の親御さんの安心立命のためには、「子供好きの青年」と「小児性愛者」は、まったく別の、かけはなれた、小鳥と蛇ぐらいに性質の違う人間であってくれた方がありがたいのであろうが、現実には、彼らの間には、なだらかな境界領域があるばかりで、「子供好きで熱心な教師なのだけれども、若干ロリな気味もあって、実家の納戸には高校時代に集めた萌えイラストが大量に保管されていたりする」28歳が、娘さんの担任に就く可能性は、これは、簡単には排除できない。非常に残念ななりゆきだが。

いかにおぞましくても、我々の社会の中にそれは確実に存在する。

どう規制したところで、消すことは不可能だ。

「ない」ふりをすることで、警戒心を下げてしまうリスクもある。

*     *     *

結局、明らかなわいせつ物については、既に裁く法律が整備されている。

その運用で間に合わないレベルの新たな禁忌を発明するのは、屋上屋であるのみならず、有害な措置になる可能性が高い。

「現行法の及ばない新しいタイプの変態性欲が登場している以上、それを裁く新しい法律を作らないと法のアナができてしまう」

と、彼らは考えているのかもしれない。

違うと思う。

新しいギミックがあれば、新しい描き方が生まれ、新機軸の画材が登場すれば、それを使ったこれまでにない絵が出来上がってくる。でも、描かれている主題は、そんなに変わらない。絵を描く人間の目は、大きく見れば不変なもので、色鉛筆で描いたのであれ、フォトショップで描いたのであれ、リンゴはリンゴで、ワカメはワカメになる。タッチや手法の違いはあっても、主題は同じ。美も。情熱も、だ。

であれば、現行法の枠内で、ポルノはポルノとして、十分に規制できるはずだ。規制できないと考えるのは、規制の条件を形骸化&機械化(「毛が映っているかどうか」とかみたいな、アタマの悪い判断基準への固着)させてしまっている現場の怠慢だ。

めんどうくさがるのはよくない。

だから、めんどうくさい材料をさらに提供しておこう。

谷崎潤一郎の一連の作品や、川端康成の一部の小説には、よく読めばかなりあからさまな変態性欲が描かれている。

が、素材として少女性愛を扱っていても、主題としてフェティシズムを中心に据えていてさえ、彼らの作品はポルノグラフィーにはならない。どんな描写があろうと、全体としての印象は「人間存在の不可思議」や「運命の残酷」を描いた第一級の作品になる。そこのところが芸術の芸術たる由縁で、要するに性描写の有無が作品のわいせつ性を決定するわけではないのだ。あたりまえの話だが。

同じように見える作品でも、たとえば調子ぶっこいた若い奴が障子紙に不作法をはたらく湘南ブランド御用達の武勇伝文学や、ビジネスマン向けの新聞に連載された老年不倫情死小説は、ポルノでこそないものの、芸術には届かない。要は、作品次第ということだ。

別の立場から見れば、たとえば、源氏物語などは、網のかけ方次第では、十分、児童ポルノに分類できる。原本自体は、難解な文体(っていうか単に悪文なわけだが)ゆえに、教養の無い読者には読みこなせない、だから、「源氏を読みこなす読解力のある人間なら、ポルノなんかに影響を受けるはずがない」ぐらいなところで、現実には、規制を免れるかもしれない。どうせ当局の人間は、権威主義のカタマリなわけだから。

でも、源氏を現代語に訳した上で具体的な挿し絵をつけたら、無事では済まない。タイトルを変えたら、まずアウトだ。古典オーラを失ったら、あれはけっこうヤバいポルノになる。だって、美形の幼女を拉致した上で、密室飼育して理想の愛人に……というストーリー自体、あまりにも……

逆に考えれば、紫式部の時代から児童ポルノはあったということだ。そう思えば、「青少年を性的対象として扱う現代の風潮」という、改正案の中の記述は、そもそもが勘違いだったということになる。

もちろんこれは混ぜっ返しに近い。協議会の委員の方々が真摯に論じられたことは理解している。「例えばセックスのものすごい過激な、乱交の場面を書くとしても、その場面を書くことで、人間の肉体というものがどうしても感情と関わってきてしまうんだというようなことを書こうとすれば、その描写というのはどうしても必要になってくる」という発言もあった。「漫画と文学は全く違うと思います。アニメ、漫画と言っているので、文学の世界でどういう表現が認められて、世界的な作家がどうというのは全く関係がない」と言われると、ちょっと鼻白むけど。(※)

(※ 発言はどちらも第8回専門部会の議事録から引用。「世界的な作家がどう」とは、村上春樹氏の『1Q84』を指す)

規制をするならするで、それに先だって法整備をせねばならない。検閲をするならするで、その際には、事前に、有識者なり委員会なりにはかって「有害ポルノ」と「無害な作品」の間にきっちりとした線引きをしておく必要がある。

容易なことではない。というか、きわめてややこしい。

なだらかな境界領域のどこに線を引くかで、施行前も後も何度も何度も揉めるだろう。

それでいいのだ。

世の中にはやっかいな大人たちがいて、それをどこで押さえるべきかで悩み、規制に努力している大人もいる。

それこそを、青少年に知らしめるべきだ。

「非実在青少年」は、そこを逃げている。

「めんどうくさいから、人もゴキブリもナパームで……」

というのは、実在の青少年に見せるべき大人の態度ではないように思う。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

東裕紀「ネットがあれば政治家なんて要らない」

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「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案
2009/10/24 14:37

インターネットというテクノロジーは10万人規模の直接民主制を可能にする。基礎自治体(市町村)のいくつかはミクシィ(mixi)とかのSNSで運営すればいい――。批評家の東浩紀さん(38)が深夜のテレビ番組で「政治の未来像」について大胆な提案をした。「そうなれば、政治家は今ほど必要ないのではないか」というのだ。

* ツイッター、携帯サイトを開設 : J-CASTニュース
* 「知事会は政治屋ばかり」「出席に値しない」 川勝静岡県知事言いたい …

Google からクリッピング – 2009年10月25日

東さんが出演したのは、2009年10月24日未明にテレビ朝日が放送した討論番組「朝まで生テレビ!」。この日は「若者に未来はあるか?」がテーマで、人事コンサルタントの城繁幸さん(36)やフリーライターの赤木智弘さん(34)といった世代間格差について発言している20代や30代がパネラーとして登場したが、「朝生」の独特の雰囲気に飲まれてしまったのか、いまいち歯切れが悪い。そのなか、番組前半で若者側のパネラーとしては唯一、気を吐いていたのが東さんだった。
「いまさら『若者論』をやっても意味がない」
東さんは「朝生」の番組終了後にツイッターを再開。「愉しんでもらえたようでよかった」などとつぶやいた
東さんは「朝生」の番組終了後にツイッターを再開。「愉しんでもらえたようでよかった」などとつぶやいた

「高齢者がどんどん増えていく日本という国がこのままダメになるのは自明で、今後は高齢者が得するような国を作るしかないのだから、若者が差別されているとか損しているといった『若者論』をやっても意味がない。むしろ高齢者が増えていくなかで、それをうまく回していく社会をどう作るのかという話をするべきだ」

と、番組のテーマをいきなり破壊。司会の田原総一朗さん(75)が「どうすればいいの?」と問いかけると、東さんは「インターネットを使った直接民主制」の可能性について語った。

「今回、政権交代が起きて、『官から民へ』とか、『国民が政治をコントロールできるようになった』と言っているけれど、僕は、ネットワークや情報技術の革命はすごく本質的だと思う。これまで政治家の仕事はいろんな人たちをつなぐことだったが、つなぐだけだったらインターネットでもできる。そうなると、これからの社会はもしかしたら、こんなに政治家っていらないのかもしれない」

と指摘。従来の選挙システムに代わる、ネット時代の新しい政治システムがありうるのではないかという考えを示した。

「国民が政策にじかに介入できるようにちゃんとシステムを作って、政策審議過程を全部透明化し、パブリックコメントのシステムをもっと洗練された形にすることによって、全然違う政策の作り方ができるかもしれない。たとえば基礎自治体(市町村)のいくつかなんて、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で運営すればいいと思う。ミクシイとかで」

「10万人ぐらいの規模なら直接民主制ができる」

東さんはインターネットの技術を使った政策形成システムを提案したが、評論家の小沢遼子さん(72)や作家の猪瀬直樹さん(62)といった高齢世代のパネラーは理解に苦しんでいるようで、一様にポカンとした表情。田原さんも「僕、わかんない」と正直な感想を口にした。しかし、東さんは「これ、わかりましょうよ」とさらに言葉を続ける。

「(18世紀の社会思想家で、直接民主制を主張した)ルソーのころのジュネーブの人口は2万400人だったが、これぐらいだと直接民主制ができる。しかも僕たちには今、SNSやツイッター(Twitter)というのがあって、たとえば勝間(和代)さんやホリエモン(堀江貴文さん)は、ツイッターでフォロワーが15万人もいる。1人のサービスを15万人がフォローしていて、しかも勝間さんや堀江さんはそれに(レスポンスを)返している。そういうことができるインターネットというテクノロジーは、10万人とか5万人という規模だったら、直接民主制を可能にするんですよ」

このような新しい政治システムの可能性があるのに、いまだに従来型の選挙で満足している現状にこそ問題があると、東さんは指摘した。では、なぜ技術の進歩にもかかわらず、東さんが構想するような「ネットを使った直接民主制」が現実化しないのか。それは「人の想像力がまだ追いついていないからだ」と東さんは言う。

「どの規模だったら直接民主制が可能かというのは、各時代のコミュニケーションの技術が決める。いま僕たちがいる時代は、劇的にコミュニケーションコストが安くなっている時代だから、10万人でも直接民主制ができるようになった。でも制度が追いついていないし、人の想像力が追いついていない。10万人で直接民主制なんてやったら大混乱が起きるだろうと人は思ってしまう。けれども僕は、想像力が追いついていないだけだと思う」

早口でまくしたてるように「ネット時代の政治像」を語る東さんに他のパネラーは圧倒されたようだったが、田原さんはジャーナリスト特有の直感が働いたのか、「これ、面白い!」と反応していた。ちなみに、東さんは番組中、手元のアイフォーン(iPhone)らしきものを見せながら

「ツイッターをやろうと思っていたんですけど、ここ電波が通じなくてできなかった」

と発言。ツイッターユーザーの笑いを誘っていた。

メディアとしての重要性 ダントツに携帯

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BPOが若者のテレビ視聴調査 地デジは4割未満 重要なメディア『携帯』圧倒的
2009年10月17日 朝刊

地上デジタル放送を見ている人は四割に満たず、そのうち約三割はアナログも見ている-。放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会が、若年層(16~24歳)を対象に行った調査で、こんな視聴実態が明らかになった。一方、番組を録画して見る視聴者の中には、「倍速再生」という新たな視聴スタイルが生まれている。調査結果が意味するものとは-。 (近藤晶)

「あなたのお宅では地上デジタル放送をご覧になっていますか?」。この問いに「はい」と答えたのは37・1%にとどまり、「いいえ」は57・1%だった。BPOの調査対象は若者だが、全体の93・5%が家族と同居しており、単身世帯が多いというわけではない。

調査を行ったのは昨年十一月。今年三月の総務省調査では、地デジを「視聴している」と回答した人は46・6%に上る。二つの調査は地域もサンプル数も異なるが、BPO調査チームリーダーの橋元良明・東大大学院情報学環教授は「年末商戦を挟んだ四カ月間で普及が進んだとも考えられるが、ちょっと差が大きすぎる印象」と首をかしげる。

BPOの調査では、インターネットや携帯電話など多メディア環境の中で育った「デジタルネーティブ」と呼ばれる世代にもかかわらず、地デジにはあまり積極的でない意外な実態が浮き彫りになった。

37・1%は自宅で地デジが見られる状況にあるのに、アナログを見ている割合は「地デジとアナログが半々」「どちらかといえばアナログが多い」「すべてアナログ」を合わせると三割を超える。最大の理由は「自宅にはアナログ放送しか見られないテレビがあるから」(58・6%)だ。自室でテレビを見ることも多い若者。調査報告書は「家庭内の二台目、三台目や単身家庭のテレビをいかに迅速かつ確実にデジタル化していくかが、完全移行のための大きな課題」と指摘している。

アナログを見る理由はほかに、「地デジのチャンネル番号に慣れていない」「地デジはチャンネルの切り替えに時間がかかる」から。地デジならではの電子番組表(EPG)はほとんど利用されておらず、「若い人も、すぐにデジタル放送に飛びついているわけではない」(橋元教授)のだ。

それでは、若者のテレビ番組の見方はどうか。自宅(97・9%)で、テレビモニター(視聴番組の96・2%)で見るのが圧倒的だが、同時に「携帯電話でメールやサイト閲覧をする」(64・9%)という携帯の「ながら視聴」は、もはや当たり前。情報メディアとしての重要性は、携帯電話(69・5%)、パソコン(16・1%)の次がテレビ(11・6%)で、半数の人は「テレビはなくても困らない」と答えた。

橋元教授は「テレビに強い不満はないが、大事なメディアは携帯という人が多くなっている。『ながら視聴』も、身支度や食事と比べ、携帯は集中度が必要。ますます軽く浅く見られる傾向が出てきたのではないか。少なくとも十年以上前と比べると、テレビの重要性が非常に低下している」と指摘した。

今回の調査では、アンケートとは別に、新しいメディアの利用者にグループインタビュー調査も実施した。

ハードディスクレコーダーで番組を録画・再生する視聴者は、「倍速」で見るのが基本。面白いCMは別だがCMは極力避け、番組自体も「内容さえ分かればいい」「要所要所を分かればいい」というのが理由だ。

録画も面倒というのがネット動画視聴者。主に動画投稿サイトで、テレビのバラエティー、ドラマ、音楽番組、音楽のプロモーションビデオを視聴。「見たい映像だけを検索して、編集加工された映像を見る方が効率がいい」ため、特定の「事柄」や「人物」で再構成されたコンテンツも視聴されていた。

どうでもいい部分は見ないで、おいしいところだけつまみ食いして見る。報告書は、こうした視聴形態の特徴を「番組解体」とし、「番組は断片化され、情報パーツの寄せ集めと受け止められている」と分析している。

【調査の方法】対象は東京都内に住む16歳から24歳までの男女311人。23区のうち無作為に選んだ江戸川、練馬、世田谷など6区の住民基本台帳から無作為抽出した。調査期間は2008年11月10~16日の1週間。アンケートと同時に、平日2日と休日1日の計3日間で視聴・録画した番組を番組表に記録する調査も実施した。

一方、グループインタビュー調査は09年3月に行い、首都圏在住の高校生、大学生、社会人(20~24歳)の計29人が対象。(1)ハードディスクレコーダーによる録画視聴(2)ネット動画視聴(3)ワンセグ視聴-のグループにインタビューを行った。

「クレしん」臼井氏の悲報に対する中国メディアの反応

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「一路走好!」~『クレヨンしんちゃん』の作者逝去に関する中国の熱い報道

9月21日、『クレヨンしんちゃん』の作者である臼井儀人さんの逝去が確認された。中国のメディアでは失踪の時点から始まって、刻一刻と新情報が伝えられ、ネットや新聞だけでなく、CCTV(中央電視台)までが、その進展を追った。中には事故現場における断崖絶壁の写真を載せて、「自殺かもしれない」という憶測までが報道された。

しかし、21日に、発見されたご遺体が、まちがいなく作者のものであることが判明すると、どのメディアも作者の逝去を惜しむ声に満ち溢れた。

中でも私を感動させたのは、「一路走好!」という哀悼の言葉だ。

中国語の「走」は「歩く」という意味で、「好」は「良い」という意味。したがって「一路走好」は「(あの世にいらした後の)人生がどうか素晴らしいものでありますように!」ということを指す。「ご冥福を祈る」(祈冥福)と内容的には同じと言えば同じだが、言葉のニュアンスが異なる。故人を愛し、自分に非常に近い存在として慈しみ、かつ敬愛する心が込められているのである。

実際、日経ビジネスオンラインの連載(2007年10月24日、「クレヨンしんちゃん」にハマる中国の母娘 )でもご紹介したように、中国における『クレヨンしんちゃん』の人気には絶大なものがある。特に中国の場合は、お茶の間に流す画像として好ましくない場面にはモザイクが施してあるので、大人も安心して子供に観せることができ、まさに親子ともども笑い転げながら鑑賞し、また若い女の子たちはまるで自分の将来の子供を可愛がるような気持ちで「しんちゃん」を愛した。

大手メディアもネットも大量に報道

中国語では『クレヨンしんちゃん』は『?筆(ラービー)小新(シャオシン)』と訳されている(筆は簡体字表記)。「?筆」とは「クレヨン」、「小」は子供の名前や自分より年の若い者の名前の前に付けて親しみを込めて呼ぶときに使う場合が多く、「小新」は「可愛い新ちゃん」というニュアンスである。

その熱の入れ方の詳細を記すのは至難の業だが、いくつかの例を引くなら、たとえば「人民日報」電子版である人民網(網はネット)では、娯楽チャンネル、メディア・チャンネル(「中国新聞網」からの転載)、bookチャンネル(「広州日報」からの転載)というように、30分から数時間という非常に頻繁な間隔で「?筆小新」の作者に関する新しい記事を載せ、21日の時点で「人民網」だけで200項目以上の記事を見つけることができた。

紙ベースでも多くの新聞がこの訃報を大きく扱い、「北京晩報」(夕刊)では「世界新聞」(世界のニュース)の頁で紙面半分を割いて扱っており、北京の「京華時報」でも紙ベースで報道したものを京華網というサイトに載せ、それがつぎつぎに転載されている。

また人民網にも転載された「広州日報」(紙ベース)に載っている『クレヨンしんちゃん』のアニメ画像の下には「網友哀悼:臼井已去,小新再无新作」(ネットの友達から哀悼を表する:臼井さんは既に去ってしまった、「小新」(可愛い新ちゃん)の新作を見ることはもうできない)というキャプションが付いていた。
ウェブに溢れた哀悼の声

「中国新聞網」は9月21日、「ありがとう!どうか一路走好」というタイトルで、作者への網友たちの哀悼の思いを、次のように述べている。

――超人気漫画<?筆小新>の作家・臼井義人氏の逝去が伝わると、網友たちは深い悲しみに包まれ、心痛を表した。多くの網友たちはみな一斉に「新?走好」と言いながらたくさんの書き込みをしてくれた(筆者注:「新?」とは「新ちゃんのお父さん」という意味)。

多くの80后(1980以降に生まれた若者)たちは皆、<?筆小新>を観て育ってきた。小新は悪ふざけが好きで小利口で、いつも小ずるく言い逃れをして、しかもちょっとエロっぽくて、中国の格式ある教育から言うと、とても容認できるものではないかも知れない。でも、漫画の中のこういう子供を観ている者たちは、泣くに泣けず笑うに笑えない気持ちで、小新を愛してきた。

作者の臼井さんが逝去したという知らせが走ると、ネットには激しい衝撃が走り、網友たちは大量の書き込みを通して反応し、みな最初は「そんな情報は嘘だ、でたらめだ。彼が死ぬなんてことがあっていいはずがない」と否定したが、しかし、それが動かぬ事実であることを知ると、今度はその死を惜しみ、高らかに「新?走好」と叫んで、臼井さんが小新を創り出してくれたことに感謝する言葉を書き込んだ。

ある網友は次のように書いている。

「私の素晴らしかった少年時代は、あなたがいたからこそあったのです。あなたが行ってしまった今、私はいったいどうすればいいのでしょうか。あなたを永遠に忘れない。どうか天国で小新を見守っていてください」

またある者は、苦しみと感謝を次のように訴えている。

「私の?筆小新、あなたは私とともに人生を歩んできてくれました。あんなに気が狂ったみたいに買い漁ったあなたのDVD、そしてテレビで放映されるたびに録画した画像。かつてあんなに狂おしいほどあなたを観るために深夜まで起きていて母親と喧嘩した日々。今日までありがとう、小新! たしかに今はもう大きくなって、以前ほどはあなたを観なくなったけど、でもあなたは私の脳裏深くに刻まれ、私の心の中に生きています。ありがとう、親愛なる臼井義人老師! あなたは小新を創り出してくださいました。あなたの長い年月にわたるご苦労に感謝します。今はただ、あなたがもう一つの世界で、もっと美しい日々を送られることを祈るのみです」
キャスターが示した親愛の情

2009年9月21日、CCTV(中央電視台)は「朝聞天下」で朝の8時26分から2分半ほど、この件に関して放映したが、番組の最後に、ニュースキャスターが「一路走好!」と、親愛の情をこめて哀悼の言葉を述べた。心温まるものを感じたのは私一人ではないだろう。これ以外にもCCTV.COMには30個以上の番組が載っており、その中の多くはCCTV系列で放映されたものばかりだ。

北京にある清華大学の動漫サークルのメンバーの一人である張玉蛍さん(ナノテク専攻)からも、次のようなメールが来た。ほぼ原文そのままでご紹介する。

――「クレヨンしんちゃん」の作者失踪という第一報が入った瞬間から、若者の掲示板ではスレを立て、みんな祈るような気持ちで「どうか無事でいてほしい」という思いを必死で書き込みましたが、やっぱり残念なことになってしまいましたので、みんなはとっても悲しいです。

追悼文をネットに書き込んだり、クレヨンしんちゃんの漫画を読み直したり、それぞれが何らかの形で自分の哀悼の思いを表しています。

若者のみならず、クレヨンしんちゃんは三十代、四十代の人にも大人気なので、中国のマスコミの報道もいっぱいあります。CCTV1や南方週末とか、多くの報道がなされましたが、中でも驚いたのは、CCTV1が日本漫画家を報道するのはこれが初めてで、前代未聞のことじゃないかなぁ、と思っています。

みんな、こんなに熱い思いを持っていたから、まだ死者の正体が確認されていない時に、中国のマスコミではもう作者の臼井先生の死亡が確定したような無責任な記事を書いた者がいたので、ネットではみんながその記者に対する非難の声を浴びせました。それくらい、臼井先生には生きていてほしかったのです。

また同じ清華大学の動漫サークルの黄静波さん(航空工学専攻)からは

――「クレヨンしんちゃん」の作者が亡くなったということに関して、僕たちは日本の人たちと同じ悲しみを味わっています。中国のメディアでは、鳩山首相や酒井法子さんと同じくらい、いやそれ以上に大きく扱っていますが、これにより<クレヨンしんちゃん>がどんなに中国人から愛され、中国のファンたちが、どんなに作者の逝去を悲しんでいるかが分かるのではないかと思います。

というメールが届いた。
若者たちをひとつに結んだ

実際、中国の多くのサイトにアクセスすると、鳩山さんの訪米に関する記事と同じ程度の大きさで、「クレヨンしんちゃん」に関する記事が扱われている。

他の40数カ国においても同様の反応があったようだが、サブカルチャーの持つ力の大きさを、改めて知らされた出来事だった。私自身は子育てをしながら片手間に観たのにすぎないが、それでも思わず吸い込まれて家事の手を休め、子供とともに噴き出してしまったこともある。

中国の若者たちだけでなく、世界の若者たちを、言語と文化と民族を超えて一つに結んだ臼井氏の功績を讃えたい。そして私もまた一つになって、心からの哀悼の意をささげたい。

「新?、一路走好!」

アメリカでヴァンパイアブーム

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[第14回] いまどきの吸血鬼が映し出す米国社会
宮家あゆみ Ayumi Miyake ニューヨーク在住ライター・翻訳者

米国はいま、新たなヴァンパイアブームだ。ケーブルテレビ局HBOで08年9月に始まった吸血鬼ドラマ「トゥルーブラッド」が、第2シリーズに突入した現在も高視聴率を維持している。同年11月には、ステファニー・メイヤーによる少年少女向け人気シリーズ小説『トワイライト』が映画化され、大ヒットを記録。若者を中心に熱狂的なファン層を生み出し、ハリー・ポッター以来の社会現象ともなった。映画の続編となる「ニュームーン/トワイライト・サーガ」は、米国では今年11月20日から公開予定だ。今回のフィクション部門リストには、なんと3冊もヴァンパイア小説がベスト10入りした。現代アメリカならではの吸血鬼本を3冊紹介したい。

まず、7位のシャーレイン・ハリス著『Dead and Gone』。スーキー・スタックハウスが主人公となるサザン・ヴァンパイア・シリーズの9作目で、前述のドラマ「トゥルーブラッド」の原作である。物語の舞台は現代の米国南部。
吸血鬼は社会的に認知されてマイノリティーながらも人権を得ているという想定だ。オオカミ人間やヒョウ人間など動物に姿を変えられるシェイプシフターや、魔女も登場。吸血鬼向けの飲み物(トゥルーブラッド)や、テレビの吸血鬼専門チャンネルも存在し、米国の日常生活の吸血鬼版がコメディータッチで描かれる。

主人公のスーキーは、人の心を読む能力を持つ妖精で、普段は酒場でウエートレスとして働いている。ヒョウ人間の義姉が何者かに殺され、スーキーは妖精社会の抗争に巻き込まれる。ヴァンパイアに続いてオオカミ人間たちが自分たちのアイデンティティーを人間社会にカミングアウトしたことによってヘイトクライム(憎悪犯罪)が起き、ヴァンパイアとシェイプシフターの間にも偏見や差別が存在するなど、米国社会が抱える問題を映し出すようなエピソードも多い。そして、欠かせないのが魅力的な男性吸血鬼たちとのロマンス。ヴァンパイアから生き血を与えられる場面は特にセクシーだ。スリラー、ミステリー、コメディーの要素がちりばめられたヴァンパイア・ロマンス小説の王道作品といえる。

1位のローレル・ハミルトン著『Skin Trade』も、ヴァンパイア・ロマンス小説として高い人気を得ているアニタ・ブレイク・シリーズの17作目。スーキーと同様、主人公の女性アニタは吸血鬼ではないが美しい容姿の持ち主。罪を犯したヴァンパイアを処刑するヴァンパイアハンターで、死者を一時的に蘇生させる能力を持っている。凶悪な連続殺人犯ヴァンパイアからアニタの元に人の首が送り届けられる。捜査のためラスベガスに飛んだアニタは、残虐なトラ人間たちと対決する。恋人のヴァンパイアとのロマンスも描かれるが、前作までと比べると、ミステリー的色彩が強い。

一説によれば、アメリカでの昨今のヴァンパイア人気は60年代後半の反体制運動に端を発しているという。新しい若者文化の誕生のなか、究極のアウトサイダーとしてのヴァンパイアがクールな存在となり、ポップカルチャーに浸透したという説だ。また、ヴァンパイアの描かれ方は時代を反映する。かつては恐ろしい存在だったヴァンパイアは、いまや美形でセクシー、性格が良く、同時に暗さもあわせもつ、10代から20代のあこがれの対象となっている。

9位の『The Strain』は、ロマンス的要素を排除したスリラー・ミステリー小説で、上記2冊とは一線を画した骨太な作品だ。06年末公開の映画「パンズ・ラビリンス」で翌年のアカデミー賞にもノミネートされた、メキシコ出身の映画監督ギレルモ・デル・トロの小説家デビュー作であり、作家チャック・ホーガンとの共著。ヴァンパイア対人間の戦いを描いた3部作の1作目となる。

物語は、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に着陸したボーイング777型機の機内で突然、異変が起きるところから始まる。生物テロの可能性を視野に入れ、機内に乗り込んだドクター・グッドウェザー率いる捜査員たちは、血の凍るような光景を目にする。一方、ニューヨークのスパニッシュハーレムで質屋を営む、かつては教授でありホロコーストの生存者アブラハム・セトラキアンは、その異変に気づいていた。ヴァンパイア・ウイルスの感染拡大を食い止めるため、セトラキアンとドクター・グッドウェザーが手を組み、マンハッタンの地下鉄構内でマスター・ヴァンパイアとの戦いに挑む。

緊張感のある場面が次々と出てきて、映画を見ているような錯覚に陥る。
物語は完結せず、続編が待ち遠しくなる。当初、3シーズン限定のドラマシリーズとしてテレビ局に構想が持ち込まれたが、経費がかかりすぎるのと、コメディーではないという理由で断られ、著者の長年の夢だった小説として出版された。デル・トロ監督は多忙だが、映画化を期待したくなる作品だ。
米国のベストセラー(フィクション部門)

2.は『タイタニックを引き揚げろ』の著者のNUMAファイル・シリーズの新作。ミクロネシア諸島近海で米国政府が極秘に進めていた生物医学研究内容が何者かに奪われる。

3.は予算削減のあおりを受けてロサンゼルス・タイムズ紙を追い出される寸前の記者が、自らのキャリアをかけ、殺人事件を追うノンフィクションの執筆を決意。殺人罪に問われ収監中の16歳の麻薬ディーラーが犯人ではなかったことを知る。

4.の舞台は1937年の上海。裕福な家庭の中国人姉妹が、父親の事業失敗で、中国人花嫁を探しにきた米国人に売られ、渡米する。著者は中国人を曽祖父に持ち、中国文化に造詣が深い。

5.はニューヨークのソーホーのロフトに住み、女性フォトグラファーとして活躍する主人公がクリスマスに仕事先のロンドンで、アイルランド系米国人の人気作家と恋に落ちるというロマンス小説。

6.は元米国軍人ジャック・リーチャーが主人公となるシリーズの13作目。
ニューヨークの地下鉄車内での事件が、ワシントン、カリフォルニア、アフガニスタンへと展開する、息もつかせぬサスペンスストーリー。

8.はウィメンズ・マーダークラブ・シリーズ8作目。サンフランシスコの富豪宅のパーティーで起きた著名人カップルの殺人事件。女性警視リンゼイ・ボクサーが活躍するスピード感にあふれるミステリー作品。

10.はミネアポリス市警警部ルーカス・ダベンポートが主人公となるシリーズの19作目。08年、ミネソタ州セントポールで開かれた共和党大会を舞台に繰り広げられるサスペンス小説。

メディアに浪費せずーイギリスの10代

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「メディアにおカネは使いません」 15歳の英高校生の報告が反響
2009.7.14 18:27

【ロンドン=木村正人】「メディアの必要性は増しているが、おカネは使いません」-。ロンドンの高校に通うごく普通の男子生徒(15)による、10代の携帯電話やインターネットの使用実態をまとめた報告書が、ファンド・マネジャーや情報通信企業のトップの間で大きな反響を呼んでいる。

この生徒は、学校の休暇を利用して米金融グループ、モルガン・スタンレー欧州調査部門で研修したマシュー・ロブソン君。

同社が研修生に「10代の子供たちがどんなメディアに親しんでいるか」についてまとめさせた。ロブソン君の報告書が洞察力に富んでいたため、投資家向けレターに掲載したところ、普段の5~6倍の問い合わせがあったという。

報告書によると、10代はメディアを友人と会話を交わす手段とみなして、インターネットなどに接する時間を増やしているが、おカネを使おうとは思っていない。有料の新聞を読んでいる10代は皆無で、値段の安い大衆紙か、無料紙で十分と考えている。テレビの視聴時間も減少、広告をわずらわしく思っている。

99%が携帯電話を所有しているが、高額機種は不人気で、テキスト送信と通話機能を主に使用。音楽も有料ダウンロードサイト、iTuneは使わずに、違法な無料サイトから取り込むのが一般的だ。任天堂のゲーム機「Wii」は大人気で、長時間にわたってオンラインで友人と無料の会話を楽しんでいる。最近、話題の米コミュニケーション・サービス「Twitter」は携帯電話で文字を送るのにおカネがかかるので10代は使わないという。

無料のメディアをうまく使いこなす一方で、財布のヒモを締める10代に、新聞やテレビなどメディアの経営者は頭が痛いようだ。

テレビ、雑誌、ゲーム離れ加速  若者の一日

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怖いよね、若者たちのこの嗜好の変化って。彼らの間で今起こっていることは、間違いなく数十年後さらに加速されるもの。

今でも新聞社は経営危機どころか、ビジネスモデルを考え直さなければならない時代に入ったし、テレビ局は広告料収入の大幅減少によって番組再編を迫られているという。マンガを含めて雑誌も青息吐息。

「ネット」の魅力って何なんだろうね。人はなぜ何時間もパソコンやケータイを触っていられるんだろう。おいらはどちらかというと旧メディア派だから、新聞やテレビがなくなるなんて考えられないけど。

10―30代はネット利用時間が増加、テレビ/ゲーム/雑誌離れ進む
2009年6月5日

ネットエイジアは6月5日、インターネット利用や余暇の過ごし方に関する調査結果を発表した。10―30歳代の携帯電話ユーザーは、インターネット利用時間が増えているのに対し、テレビゲームとテレビ視聴時間、雑誌を読む時間が減少した。特に携帯電話からのインターネット利用は、この1年間で「増えた」(46.1%)という回答が「減った」(7.3%)を大きく上回った。

そのほかの行為に費やす時間は、パソコンからのインターネット利用は「増えた」が30.8%、「減った」が20.8%、テレビゲームは「増えた」が11.3%、「減った」が38.1%、テレビは「増えた」が16.5%、「減った」が37.1%、雑誌は「増えた」が16.4%、「減った」が 33.1%。

プライベートでインターネット利用に費やす時間の平均は、パソコンからが1日当たり59.8分、携帯電話からが同60.1分。時間の長さ別でみると、携帯電話からは「30―60分未満」が17.1%、「60―90分未満」が17.8%、「90分以上」が23.9%。パソコンからは「30―60分未満」が15.6%、「60―90分未満」が23.1%、「90分以上」が24.1%だった。1日30分以上インターネットを利用している人の割合は、パソコン、携帯電話とも約6割になる。

よく利用するWebサイトのジャンルを複数回答で尋ねたところ、携帯電話からは「ニュース/天気予報」(67.5%)、「着メロ/着うた/着うたフル」(57.9%)、「検索」(48.0%)、パソコンからは「検索」(63.4%)、「ニュース/天気予報」(52.2%)、「EC/オークション」(35.3%)が多かった。

調査は、全国の10―30歳代の男女を対象に携帯電話で実施した。有効回答数は1272。調査期間は4月10―14日。

若者離れ顕著なラジオ

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例の北野誠降板問題があったばかりなので、ラジオに注目。

元のサイトのグラフがすごいよ。かつてラジオは若者にとって欠かせないメディアだったんだね。深夜一人でパーソナリティの声に耳を傾ける。リクエストする。自分の出したはがきが読まれる。彼らは自分だけのコミュニケーションの場を見出していたんだね。

それが今は「ケータイ」に取って代わられている。ケータイはかつての深夜ラジオだったんだ。

【すくむ社会第1部】手書き主義のラジオ番組~『考える』の空洞化(4) (1/3ページ)
2009.4.14 20:26
ラジオ聴取者の変化ラジオ聴取者の変化

ラジオ関西(神戸市)の深夜番組「青春ラジメニア」は、平成元年4月の放送開始から1000回を超える放送回数を重ねるアニメソング番組だ。手書きはがきにこだわり、電子メールのリクエストを原則認めないという、最近では珍しい番組でもある。

「手書きはがきからは送り手の気持ちが伝わってくるが、画一的なフォントで表現されるメールだと、こうはいかない」

そう言うパーソナリティーの岩崎和夫さん(55)は、毎週収録日に出勤すると、まずは届いたはがきの束を手に取ってトランプのように机に並べる。こうして、じっくりとはがきを見ながら、その日の番組構成を考えるのが20年続く習慣だ。

送られたはがきは緻密(ちみつ)なレタリングで書かれていたり、時節のエピソードが書き込まれていたり、丹精込めて書き上げた様子がうかがえる。岩崎さんは「常連さんのはがきは字体や体裁から誰のものか、すぐに分かります」と言い切る。

番組は熱っぽいリクエストあってこそ盛り上がる。岩崎さんは、メール投稿が増えれば増えるほど、熱っぽさが失われてしまうと懸念しているのだ。

最近はインターネットで音楽を手軽にダウンロードする仕組みが浸透する一方、リクエストスタイルの番組は相次いで姿を消している。こだわりの投稿で支えられる番組だけに、投稿内容の質が低下すれば存続の危機に直結しかねない。

■◇■

近年の若者のラジオ離れは深刻だ。かつては深夜放送を聞きながら受験勉強をする中高生も少なくなかったが、今やラジオ自体を持たない人も多い。

制服リニューアルした「中学生日記」

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「中学生日記」ってギネス級の長寿番組だったんだね。テレビ放送が始まったのが1953年だからほぼテレビの歴史と共に歩んできたわけか。制服のリニューアルも良いけど、初期のころの映像を蔵出ししないのかな。テーマは何だ。高度成長期真っ只中の、日本人の感性がどんどん変化していくあのころの学校の様子を知りたいよ。

「放課後デートも出来そう!」『中学生日記』の女子制服がかわいくなった

48年目を迎える学園ドラマ『中学生日記』(NHK教育)が、4月放送分から新年度を迎えるにあたって制服をリニューアルした。かわいさを増した制服に、出演中の女子生徒役の間からは「放課後デートもできちゃいそう」、「演技にも力入ります!」と歓迎の声が上がっている。

1962年の放送開始から、48年目を迎える学園ドラマ『中学生日記』。名古屋市近郊に住む中学生からオーディションで選ばれた“日記生”を出演者に、現役中学生のリアルな体験を徹底取材してドラマ化し続けている。4月11日(土)からは、新入生を徹底的に応援するシリーズ『中1ナビ』を放送。不安がいっぱいの新生活をテーマにした物語で、主人公とともに悩みや不安を解消していく。

そして、新年度を迎えるにあたり、日記生の女子の制服をリニューアル。これまでのスカーフがリボンに変わるなど、今風のカラーを取り入れている。女子の出演者に感想を聞くと、「前よりぐっとかわいくなった」、「自分の学校の制服もコレだったらいいのに!」、「リボンの形がお姉さんぽい」と大歓迎。さらに「放課後デートもできちゃいそう」、「演技にも力入ります!」と積極的な声も聞かれた。

制服のかわいさが志望者の数を左右し、学校のレベルも上げるともいわれる昨今。『中学生日記』における今回の制服リニューアルも、“中学生のリアル”を反映しているのかも知れない。シリーズ『中1ナビ』は4月11日(土)から全3回放送。

マンガ離れの若者たち

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どちらも全盛期の半分以下に部数が減ってる。漫画家が可哀想になるくらいの安っぽいザラ紙に、変わらない装丁。罰が当たりそうで辞書を足で踏んづけないけど、マンガ雑誌だったら平気だもんね。使い捨てられても文句言えないような雰囲気を醸し出している、その「安っぽさ」が原因かも。そういえば新聞も同じか。

「マガジン」「サンデー」創刊50年 若者離れ 部数獲得へ懸命

2009/3/17

週刊少年漫画誌の草分けである「週刊少年マガジン」(講談社)と「週刊少年サンデー」(小学館)が、17日にそろって創刊50周年を迎える。ライバルとしてしのぎを削りながら読者を大人にまで広げ、世界でも類を見ない日本の漫画文化を牽引(けんいん)したが、半世紀を経た今は娯楽の多様化で勢いに陰りも見える。

1959年3月、同じ日に創刊された両誌だが、カラーは全く違う。「泥くさい『マガジン』、都会派の『サンデー』」と「マガジン」の森田浩章編集長。「サンデー」元編集者は「男の子の使命、おとこ気を熱く表現するのが『マガジン』、等身大の少年の悲喜こもごもを描くのが『サンデー』」と言う。

≪スポ根とラブコメ≫

「マガジン」の歩みを象徴する作品は、60年代後半から70年代初めに連載された「巨人の星」「あしたのジョー」など“スポ根”ものだ。当時の大学生は「マガジン」を、硬派な「朝日ジャーナル」と並んで愛読。熱い根性ものが、政治の季節の若者をとらえた。

漫画研究家の中野晴行さんは「漫画は中学生までとされていたが、団塊の世代は大学生、社会人になっても購読し、漫画文化を広げた」と見る。

「サンデー」は「うる星やつら」「タッチ」など70~80年代の“ラブコメ”ものが大ヒット。豊かな時代に学校での日常風景に近い青春の物語が、中高校生らの共感と支持を集めた。

「単行本化、アニメ化というビジネスモデルも定着していった」と中野さんは話す。

日本雑誌協会などによると、ピークの98年に450万部を記録した「マガジン」は現在、177万部。83年に228万部だった「サンデー」は87万部。68年創刊の「週刊少年ジャンプ」(集英社)は現在279万部だが、94年の653万部の半分に満たない。

ある出版社幹部によると、少子化の上、子どもたちは塾に通い遊ぶ時間が限られ、電子ゲームなど娯楽も多様化。雑誌でなくコミックスになってから読む傾向も進む。

≪活性化で共同企画≫

両誌は活性化を目指し昨年から、異例の共同企画事業に着手。互いの人気キャラクターを使った雑誌「名探偵コナン&金田一少年の事件簿」発行や、「うる星やつら」をはじめイラスト付きTシャツのユニクロによる販売などが話題になった。

森田編集長は「若い人は次々と離れる。部数を思うとどうしても上の年代狙いにもなる。50歳でも心が少年なら、とは思うが」と苦渋の表情。一方、「サンデー」の林正人編集長は「週刊漫画誌は読者のビビッドな反応で変化し得る、双方向性を備えたメディア。面白い作品を読者にぶつけ、可能性を見いだしたい」と話している。

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