Tag Archive: 児童ポルノ


非実在青少年。どういう意味だろう。
「不在地主みたいなものか?」
「むしろ無産階級かと。不在小作人。でなければ透明労働者?」
「前衛気取りのたわごとだろ。可塑的必然性みたいな。70年代に流行した思わせぶりのパラドックス。それだけの話さ」
「ズバリ” Nowhere man “だな。ビートルズの歌にある。邦題は「ひとりぼっちのあいつ」。イエローサブマリンの主人公にして自失したインテリの象徴。具体的にはナリのデカい迷子ってとこかな」
「不登校の言い換えかもしれないぞ」
「素直に読めば無戸籍児童の成れの果てだろ。無戸籍で無国籍な法令上のブラックホール。人権のエアポケット。哀れな……」
「違うね。正反対。非実在青少年は、子ども手当受給のために近未来の悪党が捏造する実体を伴わない戸籍だよ。戸籍上だけ存在する幻の扶養家族。クニに置いてきたとか言って、山ほど申請者があらわれると思うね」
「普通に虚無的な若者の自分語りだよ」
「確かに、虚無的な連中に限って自分が大好きだったりするからな。で、私は実在しないだとかなんだとか、そういうポエムを書くわけだよ。ぐだぐだと」
「で、永遠に自分探しをするわけだ」
「名刺の住所が『旅行中』だったり」
「永遠のジャック&ベティ」
「おお、ジャック・ジョーンズ。懐かしい」
「『ぼくは少年ですか?』という奇妙な質問をいまだに繰り返しているんだろうか?」
「ぼくは不在ですか、ってか?」
結局、「非実在青少年」は、字面だけでイメージを確定できる言葉ではない。
あまりにも意味不明。というよりも、多義的過ぎて着地できない。
調べてみると、これは、東京都がこの3月に都議会に提出した「東京都青少年の健全な育成に関する条例」(青少年育成条例)の改正案の中に出て来た言葉で、その意味するところは、「漫画やアニメに登場する18歳未満のキャラクター」らしい。30日に本会議で採決され、可決されれば10月から施行となる。原文は以下の通り。
「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に関わる非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害する恐れがあるもの」(「東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例」第七条の改定案より。第七条は「不健全な図書等の販売等の規制」を扱う箇所。改正前の同条例はこちらから)
条例の改定案は、児童ポルノを規制する内容を含んでいるものなのだが、その施行にあたって提案者側は、「実在していなくても、全体として青少年(18歳未満)の特徴を備えたキャラクター」、すなわち、「非実在青少年」を性の対象として描写することを禁じなければ、実効ある規制にはならない、と考えたわけだ。
萌えイラストやCGの少女が性行為をする、みたいな作品は、たとえ現実の子供が被害者になっていなくても、その作品を見ることになる青少年の健全な育成にとって有害であるがゆえに規制せねばならない、と。
規制推進派の見解から私が読みとった限りによれば、現行の法律でマンガやアニメに網をかけるのは難しいらしい。なんとなれば、架空のキャラクターには「被害者」が実在しないから。さらに、架空のキャラクターは児童ポルノ法で取り締まる際の構成要件である「18歳未満」と特定することも難しい。作品の中ならばどうみても学童年齢の少女に
「私は175歳です」
と言わせることもできるから。そこで作中の設定はどうあれ「見た目が18歳未満ならば、取り締まりの対象にできる」ということにした。
なるほど。
つまり彼らは、萌えイラストを法の網にかけるために、新しい概念を発明したのだね。
非実在青少年。なんというバーチャルリアリティな情熱。
もっとも、条例案は、実在しない青少年の人権を守ろうとしているのではない。いくらなんでもそこまでブッ飛んではいない。むしろ、バーチャルなキャラクターを仕立てたおとり捜査に近い(なお誤解がないように言っておくが、もちろん問題は「性交又は性交類似行為に関わる」描写にあるわけで、普通に非実在青少年のイラストを描いただけで条例違反というわけではない。うむ、今回のイラストは明らかにおとりだった。すまない)。
*     *     *
21世紀の文明国は、各種の「変態」的な性描写について、寛大に構える傾向にある。
つまり、「どんな種類の性的偏向であれ、同好の士が閉じたサークルの裡で楽しんでいる限りにおいて、お上は、あえて規制には踏み込まない」というのが現代的な流れだということだ。サディズム、マゾヒズム、同性愛、各種フェティシズム、あるいは、「○○専」という言い方で分類される畸形的な倒錯傾向であっても、表通りに出て来ないのであれば黙認される。勝手にしろ、と。
別の見方をするなら、自らの性的嗜好のうちに何らかの逸脱傾向を内在させている人々は、意外なほど数が多いということなのかもしれない。となると規制なんか不可能だぞ、と。さらに踏み込んだ言い方をするなら、「変態」についての問題は、「欲望の分野に『普通』なんてものが存在するのか?」という非常に厄介な問いを含んでいるわけだ。
あるのだろうか?
私は答えを持っていない。というよりも、私の「普通」が、世間の「普通」とどんなふうに違っているのかについて述べることが、そもそも「普通」ではないということだね。
語ること自体、変態ですよ。
児童ポルノは話が別だ。これについてはどこの文明国でも特殊な扱いになっている。というのも、児童ポルノが対象としている性的なターゲットは、「同好の士」ではなくて、われわれの子供たちだからだ。
当然、話はSMクラブや出会い系におけるあれこれとはまったく違う展開になる。子供という無防備かつ回復不能な存在に対して、性的な行為やトラウマを刻印することは、誰であれ、許されることではない。でなくても、児童ポルノは、「趣味の問題」として相対化できるカテゴリーではない。どこの国でも明々白々たる犯罪として当局の取り締まりの対象になっている。当然だ。
さて、それでは、絵に描いた児童を性的な対象とする作品を、我々はどう評価すべきなのだろう。
これが、今回の論点だ。

「別にオッケーなんじゃない? 被害者いないんだし」

「いいえ。問題は被害者の有無ではありません。児童を性的に扱うという趣味性のおぞましさそのものが問題なのです。絵であれCGであれ音声であれ、子供を性的な関心の対象とするということ自体が規制されなければ、問題は解決しません」

と、議論は、おおよそ二つの方向で闘わされている。

日経ビジネスオンライン読者の多くは、「規制」の側に重心を置いている、と、私は推察している。平均値としては

「規制は当然。ただ、表現の自由を抑圧しないように注意を払う必要がある」

ぐらいだろうか。

規制に原則反対である人でも、ブツを見せられると、規制派に転向する組はけっこういるはずだ。

そう。見たことの無い人がはじめて現物を見ると、あれはとてもキツい。目を疑う。っていうか、直視をはばかる。そういう描かれ方の代物になっている。全部がそうではないという人もあろうが、そういうものはない、と言い切る人はいまい。

だから、こういう物件を見せられた上で、

「こんなものが必要だと思いますか?」

と問われたら、たぶん、子を持つ親のうちの九割は、一も二も無く

「不要」

と答えるはずだ。

「不要であるのみならず有害かつ不快。よって、こんなものはただちに消去すべきです」

と、怒りをあらわにする向きも、少なくないはず。当然の反応だ。学齢期前に見える子供がマジな性行為を強要されている絵柄を見て、それでもなお利口ぶってリベラルな表情を浮かべているのは、やはり特殊な人間だ。

が、私の思うに、真の論点は、露骨な描写の漫画作品を見てどう思うかというところには無い。

というよりも、ここを論点にしてはいけないのだ。

間違いの元。ヒステリーの焦点。場が荒れるだけだ。

児童ポルノ作品が、多くの一般人にとって不快な存在であることは、これは、議論以前の問題で、見ればわかることだ。誰だってあんなものを学校の図書館に置きたいとは思わない。

が、それを規制するということになると、それはそれで厄介な問題が別枠で浮上する。現在、問題になっているのはそこだ。

規制に反対する人々は、規制の倫理的根拠に疑義を表明しているのではなくて、むしろ規制がもたらすであろう弊害について懸念している。ゴキブリを駆除するのにナパーム弾を使うのは、過剰反応ではないのか? と。ここのところを見誤ってはならない。

改定案への意見具申を行った、東京都知事の付属機関である「東京都青少年問題協議会」の専門部会の議事録(こちらから)を読むと、悪質な児童ポルノ作品を資料として机の上に展開しながら、委員の人々が、次第に冷静さを失っていく様子が目に浮かぶ。

ああいうものを見せられて、それらがネットや携帯電話などを介して小学生でもアクセス可能、という前提の中で話をしていれば、当然、議論は過激化する。

でも、現実社会でも同じことだが、「到達可能」であることと「あえて踏み込む」ことの間には、相当な距離があるものなのだ。

リアルな世界でも、小学生が歌舞伎町を訪問することは可能だし、バスの切符(パスモ?)を買えば新宿二丁目で降りることだってできる。が、だからといって、「歌舞伎町を浄化せよ」だとか「二丁目を焼き尽くせ」と言う人はいない。ん? 石原都知事が言ってた、と? では言い直す。よほどアタマがアレな人でない限り、青少年にとって有害だからみたいな理由で現実の町を消そうと考える人間はいない。

とにかく、実際問題としては、「子供の目に触れる可能性がある」ということと、「子供が見る」ということは同じではないし、まして、仮にそうした有害ポルノが子供の視野に入ったのだとしても、だからといって、それがただちに彼らの性的な嗜好を決定するものではない。風俗街と同じことだ。そういう場所には、いつしか、子供が寄りつかなくなる。で、「あえて地雷を踏みに行く人」だけが歩く町になる。それで良いのだ。

議事録を拝読して思うのだが、委員の皆さんは、欲望と愛情を、正反対の概念であると考えているのかもしれない。でなければ、「愛情が介在すれば欲望は浄化される」ぐらいに。あるいは、「たとえ結果として性行為を志向する精神作用であるのだとしても、愛情に根ざすものは『情熱』と呼ばれるべきで、『欲望』などと表現すべきではない」てなところで両者の融和をはかっている可能性もある。

が、愛情と欲望は、同一物でこそないものの、異母兄弟ぐらいな存在ではある。いずれが兄であるのかは言わないが。

ショーペンハウエルは、こう言っている。

「強姦によろうと結婚によろうと、神の目から見れば子供を産むという同じコースでしかない」

いや、私は愛情をクサしたくてこんなことを言っているのではない。ただ、世の中に「正しい性欲」と「変態性欲」があるとする立場に若干の疑義を表明しているだけだ。

欲望の傾向について言うなら、せいぜい多数派と少数派がいるというだけで、少数派のバリエーションについていうなら、われわれの想像力の及ぶ限りのものはすべて揃っている。そういうものなのだ。

恋愛の世界でも、「正しい恋愛」と「道ならぬ恋」は、なだらかな境界領域をはさんでほぼ並立している。人は自分にふさわしい相手だから惹かれるわけではないし、交際してメリットがあるという理由で恋に落ちるのでもない。だからこそ人々は、時に他人の配偶者に慕情を抱くのだし、上司の愛人のメアドみたいな地雷だらけのトラップを無視できなかったりするのだ。さよう。この道に正解は無い。

児童ポルノについても同断。

世間の親御さんの安心立命のためには、「子供好きの青年」と「小児性愛者」は、まったく別の、かけはなれた、小鳥と蛇ぐらいに性質の違う人間であってくれた方がありがたいのであろうが、現実には、彼らの間には、なだらかな境界領域があるばかりで、「子供好きで熱心な教師なのだけれども、若干ロリな気味もあって、実家の納戸には高校時代に集めた萌えイラストが大量に保管されていたりする」28歳が、娘さんの担任に就く可能性は、これは、簡単には排除できない。非常に残念ななりゆきだが。

いかにおぞましくても、我々の社会の中にそれは確実に存在する。

どう規制したところで、消すことは不可能だ。

「ない」ふりをすることで、警戒心を下げてしまうリスクもある。

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結局、明らかなわいせつ物については、既に裁く法律が整備されている。

その運用で間に合わないレベルの新たな禁忌を発明するのは、屋上屋であるのみならず、有害な措置になる可能性が高い。

「現行法の及ばない新しいタイプの変態性欲が登場している以上、それを裁く新しい法律を作らないと法のアナができてしまう」

と、彼らは考えているのかもしれない。

違うと思う。

新しいギミックがあれば、新しい描き方が生まれ、新機軸の画材が登場すれば、それを使ったこれまでにない絵が出来上がってくる。でも、描かれている主題は、そんなに変わらない。絵を描く人間の目は、大きく見れば不変なもので、色鉛筆で描いたのであれ、フォトショップで描いたのであれ、リンゴはリンゴで、ワカメはワカメになる。タッチや手法の違いはあっても、主題は同じ。美も。情熱も、だ。

であれば、現行法の枠内で、ポルノはポルノとして、十分に規制できるはずだ。規制できないと考えるのは、規制の条件を形骸化&機械化(「毛が映っているかどうか」とかみたいな、アタマの悪い判断基準への固着)させてしまっている現場の怠慢だ。

めんどうくさがるのはよくない。

だから、めんどうくさい材料をさらに提供しておこう。

谷崎潤一郎の一連の作品や、川端康成の一部の小説には、よく読めばかなりあからさまな変態性欲が描かれている。

が、素材として少女性愛を扱っていても、主題としてフェティシズムを中心に据えていてさえ、彼らの作品はポルノグラフィーにはならない。どんな描写があろうと、全体としての印象は「人間存在の不可思議」や「運命の残酷」を描いた第一級の作品になる。そこのところが芸術の芸術たる由縁で、要するに性描写の有無が作品のわいせつ性を決定するわけではないのだ。あたりまえの話だが。

同じように見える作品でも、たとえば調子ぶっこいた若い奴が障子紙に不作法をはたらく湘南ブランド御用達の武勇伝文学や、ビジネスマン向けの新聞に連載された老年不倫情死小説は、ポルノでこそないものの、芸術には届かない。要は、作品次第ということだ。

別の立場から見れば、たとえば、源氏物語などは、網のかけ方次第では、十分、児童ポルノに分類できる。原本自体は、難解な文体(っていうか単に悪文なわけだが)ゆえに、教養の無い読者には読みこなせない、だから、「源氏を読みこなす読解力のある人間なら、ポルノなんかに影響を受けるはずがない」ぐらいなところで、現実には、規制を免れるかもしれない。どうせ当局の人間は、権威主義のカタマリなわけだから。

でも、源氏を現代語に訳した上で具体的な挿し絵をつけたら、無事では済まない。タイトルを変えたら、まずアウトだ。古典オーラを失ったら、あれはけっこうヤバいポルノになる。だって、美形の幼女を拉致した上で、密室飼育して理想の愛人に……というストーリー自体、あまりにも……

逆に考えれば、紫式部の時代から児童ポルノはあったということだ。そう思えば、「青少年を性的対象として扱う現代の風潮」という、改正案の中の記述は、そもそもが勘違いだったということになる。

もちろんこれは混ぜっ返しに近い。協議会の委員の方々が真摯に論じられたことは理解している。「例えばセックスのものすごい過激な、乱交の場面を書くとしても、その場面を書くことで、人間の肉体というものがどうしても感情と関わってきてしまうんだというようなことを書こうとすれば、その描写というのはどうしても必要になってくる」という発言もあった。「漫画と文学は全く違うと思います。アニメ、漫画と言っているので、文学の世界でどういう表現が認められて、世界的な作家がどうというのは全く関係がない」と言われると、ちょっと鼻白むけど。(※)

(※ 発言はどちらも第8回専門部会の議事録から引用。「世界的な作家がどう」とは、村上春樹氏の『1Q84』を指す)

規制をするならするで、それに先だって法整備をせねばならない。検閲をするならするで、その際には、事前に、有識者なり委員会なりにはかって「有害ポルノ」と「無害な作品」の間にきっちりとした線引きをしておく必要がある。

容易なことではない。というか、きわめてややこしい。

なだらかな境界領域のどこに線を引くかで、施行前も後も何度も何度も揉めるだろう。

それでいいのだ。

世の中にはやっかいな大人たちがいて、それをどこで押さえるべきかで悩み、規制に努力している大人もいる。

それこそを、青少年に知らしめるべきだ。

「非実在青少年」は、そこを逃げている。

「めんどうくさいから、人もゴキブリもナパームで……」

というのは、実在の青少年に見せるべき大人の態度ではないように思う。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

児童ポルノ禁止法違反:娘のわいせつ画像撮影した母親有罪--仙台地裁判決 /宮城

娘のわいせつ画像を撮影したとして、児童ポルノ禁止法違反罪に問われた兵庫県内のパート職員の女(23)の判決公判が12日、仙台地裁であり、川本清巌裁判官は懲役1年、執行猶予3年(求刑・懲役1年)を言い渡した。

川本裁判官は「母親として身をていしてでも守らなければならない子供に、性的虐待と同一視できる行為をしたことは悪質」と厳しく指摘。「今後は子供に愛情を注いで養育してほしい」と女を諭した。

判決によると、女は堺市中区陶器北、無職、岩崎瑞穂被告(20)=同罪で公判中=に依頼され、今年1月、自宅で娘(当時2歳)の裸などをデジタルカメラで11回撮影した。【鈴木一也】

今国会で「児童ポルノ所持」禁止法が審議中だけど、その落とし穴をテーマにした貴重な記事です。

裁判の過程でこの教頭が家中を探し回って自分の息子や娘を含む子供のヌード写真の廃棄に勤めなければならなかった、というくだりはとても印象的だった。

だいたい「児童ポルノ」の定義があいまいだよね。近所の子供たちと一緒に裸で戯れている幼児期の写真なんて普通の家庭なら必ず何枚かあると思う。これらがもし「児童ポルノ」と判断される可能性があるとしたらこれは大変なことになる。

ましてやこの教頭のように職業上どうしてもそういう写真をストックする必要に迫られる場合だってあるだろう。それをうっかり忘れてしまうことなんてよくあることだよ。

子供の携帯所持問題もそうだけれども、悪質な業者と個人を一緒くたにして議論するのはやめよう。

「児童ポルノ所持」の恐怖:濡れ衣を着せられた高校教頭
2009年6月30日

児童ポルノ写真を所持していたとの濡れ衣を着せられて起訴され、つらい生活を強いられた高校の教頭が、これまでに支払った訴訟費用を返還されることになった。この事件では、30年以上にわたる経験を持つベテラン教師の人生がほとんど破壊されるところだった。

バージニア州サウスライディング(South Riding)にあるフリーダム高校の教頭であるTing-Yi Oei氏(60歳)は昨年、児童ポルノを所有していたという疑いで起訴された。理由は、自分の高校で起きた「セクスティング」問題について調査した過程で同氏が入手した写真だった。

[セクスティングとは、性的な内容のメッセージや写真を主に携帯電話で送信すること。米国や豪州などの十代で流行っていると報道されており、自分で撮影した自分の露出的な写真を送付する者が多い]

Oei氏は2008年3月に、校長から、同高校の一部の生徒が、10代の少女の露骨な写真を交換しているという噂についての調査を指示された。Oei氏の追及を受けて、1人の男子生徒が、携帯電話にそういった写真を1枚持っていることを認めた。

写真は、アンダーパンツ姿の若い女性の胴部だけを写したもので、両腕が胸を覆っているものだった。男子生徒は、この写真が誰のものか知らないし、送ってきた者が誰かも知らないと述べた。

Oei氏は、調査のためにその写真のコピーを保存しておくように、と校長から指図を受けたが、コンピューター操作に詳しくなかったため、男子生徒に、その写真を自分の携帯電話に電子メールで送信させ、さらに自分のデスクトップ・コンピューターにも転送させた。

他の写真も見つからなかったし、この写真の少女の身元も判明しなかったので、Oei氏はこの件については終わったと考えていた。しかし2週間後、この男子生徒が別の問題を起こし、停学処分を受けるという事件が起こった。そして処分を不当に感じた母親が、警察に写真の件を通報した。調査した警察は、この写真が17歳の同校の女子生徒のものであることを確認した。

ラウドン郡の検察は、この写真を児童ポルノであると見なし、「児童虐待の可能性があったにもかかわらず少女の親にそれを通報しなかった」ということを問題視し、辞職しなければ刑事事件として起訴するとOei氏を脅した。Oei氏が拒否すると、起訴陪審(大陪審) は8月に同氏を起訴した。この時、少女の親に通報しなかったことは問われず、「児童ポルノ所持」という重罪が主な罪状になった。この件で求刑は5年になるが、さらに、「男子生徒に写真を送信させたことで未成年者の非行を促した」という軽罪も含まれて、求刑は合わせて7年だった。

夫妻はコミュニティの人々から冷たい目で見られたほか、家宅捜索に備えて、家にあった写真を調べ、自分の子ども達が小さいころに裸で映っている写真がないかチェックするなど、パラノイア的な不安に襲われたという。一方、教育関係の団体や元生徒、属していたキリスト教会(クエーカー)の人々など、多額の訴訟費用で困難に陥ったOei氏を助けようとする人々もあった。

2009年3月、裁判所は、この写真は児童ポルノに当たらないとして訴えを棄却した。Oei氏は4月からフリーダム高校での勤務に復帰した。

さらに『Washington Post』紙によると、バージニア州のラウドン郡教育委員会は6月23日(米国時間)、Oei氏が支払った訴訟費用として、約16万7000ドルを同氏に返還することを7対1で決定した。

なお、セクスティング問題では、同様の写真を所持しているという理由で、米国各地で多くの十代が逮捕・起訴されている。

アジアなんかでは少女買春や人身売買など子供への性的虐待が一向に減らない。ネットは児童ポルノの温床になっているし。

そこで、今議論されているのが「児童ポルノ禁止法」改正問題。日本は欧米からの非難の声の押されて重い腰を上げたというところか。

問題は、児童ポルノ写真をダウンロードして自分のパソコンに保存するだけの「単純所持」を処罰の対象にするかどうか。スウェーデン王妃の訴えは日本に決断をせまっている。

児童ポルノ、日本も「所持」禁止を

スウェーデンのシルビア王妃は、ストックホルムの王宮で読売新聞と会見し、世界的に深刻化している児童ポルノ問題について、「各国政府や民間団体、企業の連携の強化が重要」との認識を示した。

特に、日本の児童ポルノ対策に関し、個人がパソコンなどを通じて入手する「所持」の禁止など規制強化を求めた。

スウェーデンをはじめ欧米諸国では、児童ポルノの「所持」禁止が主流だ。日本でも「所持」の禁止を盛り込んだ児童買春・児童ポルノ禁止法改正案が与党から国会に提出されている。シルビア王妃は「所持の禁止は児童ポルノ対策に大きな意味を持つ。法改正を心から希望します」と述べた。

シルビア王妃は、「児童の性的搾取に反対する世界会議」に出席するなど、この問題に対する発言や活動を熱心に続けてきた。最初の世界会議がストックホルムで開かれた1996年当時と比べ、インターネットの普及などで、児童ポルノや人身売買などの被害が深刻化していると指摘。対策として、児童買春に反対する旅行・観光業界の行動規範や、違法な児童ポルノサイト閲覧を遮断する「ブロッキング」などの重要性を強調した。

今年は国連の「子どもの権利条約」採択から20年という節目の年でもある。「私たちは児童ポルノ問題から目を背けるわけにはいきません。問題解決に向けて、戦い続けるしかないのです。市民一人ひとりがこの問題に関心を持ち、問題のある画像や行為を見つけたら通報するなど、恐れずに行動してほしい」。また、「性的虐待の犠牲になった子どもを社会的に支援していくことも大切です」と語った。

(ストックホルムで、小坂佳子、写真も)
(2009年6月10日  読売新聞)