「別にオッケーなんじゃない? 被害者いないんだし」
「いいえ。問題は被害者の有無ではありません。児童を性的に扱うという趣味性のおぞましさそのものが問題なのです。絵であれCGであれ音声であれ、子供を性的な関心の対象とするということ自体が規制されなければ、問題は解決しません」
と、議論は、おおよそ二つの方向で闘わされている。
日経ビジネスオンライン読者の多くは、「規制」の側に重心を置いている、と、私は推察している。平均値としては
「規制は当然。ただ、表現の自由を抑圧しないように注意を払う必要がある」
ぐらいだろうか。
規制に原則反対である人でも、ブツを見せられると、規制派に転向する組はけっこういるはずだ。
そう。見たことの無い人がはじめて現物を見ると、あれはとてもキツい。目を疑う。っていうか、直視をはばかる。そういう描かれ方の代物になっている。全部がそうではないという人もあろうが、そういうものはない、と言い切る人はいまい。
だから、こういう物件を見せられた上で、
「こんなものが必要だと思いますか?」
と問われたら、たぶん、子を持つ親のうちの九割は、一も二も無く
「不要」
と答えるはずだ。
「不要であるのみならず有害かつ不快。よって、こんなものはただちに消去すべきです」
と、怒りをあらわにする向きも、少なくないはず。当然の反応だ。学齢期前に見える子供がマジな性行為を強要されている絵柄を見て、それでもなお利口ぶってリベラルな表情を浮かべているのは、やはり特殊な人間だ。
が、私の思うに、真の論点は、露骨な描写の漫画作品を見てどう思うかというところには無い。
というよりも、ここを論点にしてはいけないのだ。
間違いの元。ヒステリーの焦点。場が荒れるだけだ。
児童ポルノ作品が、多くの一般人にとって不快な存在であることは、これは、議論以前の問題で、見ればわかることだ。誰だってあんなものを学校の図書館に置きたいとは思わない。
が、それを規制するということになると、それはそれで厄介な問題が別枠で浮上する。現在、問題になっているのはそこだ。
規制に反対する人々は、規制の倫理的根拠に疑義を表明しているのではなくて、むしろ規制がもたらすであろう弊害について懸念している。ゴキブリを駆除するのにナパーム弾を使うのは、過剰反応ではないのか? と。ここのところを見誤ってはならない。
改定案への意見具申を行った、東京都知事の付属機関である「東京都青少年問題協議会」の専門部会の議事録(こちらから)を読むと、悪質な児童ポルノ作品を資料として机の上に展開しながら、委員の人々が、次第に冷静さを失っていく様子が目に浮かぶ。
ああいうものを見せられて、それらがネットや携帯電話などを介して小学生でもアクセス可能、という前提の中で話をしていれば、当然、議論は過激化する。
でも、現実社会でも同じことだが、「到達可能」であることと「あえて踏み込む」ことの間には、相当な距離があるものなのだ。
リアルな世界でも、小学生が歌舞伎町を訪問することは可能だし、バスの切符(パスモ?)を買えば新宿二丁目で降りることだってできる。が、だからといって、「歌舞伎町を浄化せよ」だとか「二丁目を焼き尽くせ」と言う人はいない。ん? 石原都知事が言ってた、と? では言い直す。よほどアタマがアレな人でない限り、青少年にとって有害だからみたいな理由で現実の町を消そうと考える人間はいない。
とにかく、実際問題としては、「子供の目に触れる可能性がある」ということと、「子供が見る」ということは同じではないし、まして、仮にそうした有害ポルノが子供の視野に入ったのだとしても、だからといって、それがただちに彼らの性的な嗜好を決定するものではない。風俗街と同じことだ。そういう場所には、いつしか、子供が寄りつかなくなる。で、「あえて地雷を踏みに行く人」だけが歩く町になる。それで良いのだ。
議事録を拝読して思うのだが、委員の皆さんは、欲望と愛情を、正反対の概念であると考えているのかもしれない。でなければ、「愛情が介在すれば欲望は浄化される」ぐらいに。あるいは、「たとえ結果として性行為を志向する精神作用であるのだとしても、愛情に根ざすものは『情熱』と呼ばれるべきで、『欲望』などと表現すべきではない」てなところで両者の融和をはかっている可能性もある。
が、愛情と欲望は、同一物でこそないものの、異母兄弟ぐらいな存在ではある。いずれが兄であるのかは言わないが。
ショーペンハウエルは、こう言っている。
「強姦によろうと結婚によろうと、神の目から見れば子供を産むという同じコースでしかない」
いや、私は愛情をクサしたくてこんなことを言っているのではない。ただ、世の中に「正しい性欲」と「変態性欲」があるとする立場に若干の疑義を表明しているだけだ。
欲望の傾向について言うなら、せいぜい多数派と少数派がいるというだけで、少数派のバリエーションについていうなら、われわれの想像力の及ぶ限りのものはすべて揃っている。そういうものなのだ。
恋愛の世界でも、「正しい恋愛」と「道ならぬ恋」は、なだらかな境界領域をはさんでほぼ並立している。人は自分にふさわしい相手だから惹かれるわけではないし、交際してメリットがあるという理由で恋に落ちるのでもない。だからこそ人々は、時に他人の配偶者に慕情を抱くのだし、上司の愛人のメアドみたいな地雷だらけのトラップを無視できなかったりするのだ。さよう。この道に正解は無い。
児童ポルノについても同断。
世間の親御さんの安心立命のためには、「子供好きの青年」と「小児性愛者」は、まったく別の、かけはなれた、小鳥と蛇ぐらいに性質の違う人間であってくれた方がありがたいのであろうが、現実には、彼らの間には、なだらかな境界領域があるばかりで、「子供好きで熱心な教師なのだけれども、若干ロリな気味もあって、実家の納戸には高校時代に集めた萌えイラストが大量に保管されていたりする」28歳が、娘さんの担任に就く可能性は、これは、簡単には排除できない。非常に残念ななりゆきだが。
いかにおぞましくても、我々の社会の中にそれは確実に存在する。
どう規制したところで、消すことは不可能だ。
「ない」ふりをすることで、警戒心を下げてしまうリスクもある。
* * *
結局、明らかなわいせつ物については、既に裁く法律が整備されている。
その運用で間に合わないレベルの新たな禁忌を発明するのは、屋上屋であるのみならず、有害な措置になる可能性が高い。
「現行法の及ばない新しいタイプの変態性欲が登場している以上、それを裁く新しい法律を作らないと法のアナができてしまう」
と、彼らは考えているのかもしれない。
違うと思う。
新しいギミックがあれば、新しい描き方が生まれ、新機軸の画材が登場すれば、それを使ったこれまでにない絵が出来上がってくる。でも、描かれている主題は、そんなに変わらない。絵を描く人間の目は、大きく見れば不変なもので、色鉛筆で描いたのであれ、フォトショップで描いたのであれ、リンゴはリンゴで、ワカメはワカメになる。タッチや手法の違いはあっても、主題は同じ。美も。情熱も、だ。
であれば、現行法の枠内で、ポルノはポルノとして、十分に規制できるはずだ。規制できないと考えるのは、規制の条件を形骸化&機械化(「毛が映っているかどうか」とかみたいな、アタマの悪い判断基準への固着)させてしまっている現場の怠慢だ。
めんどうくさがるのはよくない。
だから、めんどうくさい材料をさらに提供しておこう。
谷崎潤一郎の一連の作品や、川端康成の一部の小説には、よく読めばかなりあからさまな変態性欲が描かれている。
が、素材として少女性愛を扱っていても、主題としてフェティシズムを中心に据えていてさえ、彼らの作品はポルノグラフィーにはならない。どんな描写があろうと、全体としての印象は「人間存在の不可思議」や「運命の残酷」を描いた第一級の作品になる。そこのところが芸術の芸術たる由縁で、要するに性描写の有無が作品のわいせつ性を決定するわけではないのだ。あたりまえの話だが。
同じように見える作品でも、たとえば調子ぶっこいた若い奴が障子紙に不作法をはたらく湘南ブランド御用達の武勇伝文学や、ビジネスマン向けの新聞に連載された老年不倫情死小説は、ポルノでこそないものの、芸術には届かない。要は、作品次第ということだ。
別の立場から見れば、たとえば、源氏物語などは、網のかけ方次第では、十分、児童ポルノに分類できる。原本自体は、難解な文体(っていうか単に悪文なわけだが)ゆえに、教養の無い読者には読みこなせない、だから、「源氏を読みこなす読解力のある人間なら、ポルノなんかに影響を受けるはずがない」ぐらいなところで、現実には、規制を免れるかもしれない。どうせ当局の人間は、権威主義のカタマリなわけだから。
でも、源氏を現代語に訳した上で具体的な挿し絵をつけたら、無事では済まない。タイトルを変えたら、まずアウトだ。古典オーラを失ったら、あれはけっこうヤバいポルノになる。だって、美形の幼女を拉致した上で、密室飼育して理想の愛人に……というストーリー自体、あまりにも……
逆に考えれば、紫式部の時代から児童ポルノはあったということだ。そう思えば、「青少年を性的対象として扱う現代の風潮」という、改正案の中の記述は、そもそもが勘違いだったということになる。
もちろんこれは混ぜっ返しに近い。協議会の委員の方々が真摯に論じられたことは理解している。「例えばセックスのものすごい過激な、乱交の場面を書くとしても、その場面を書くことで、人間の肉体というものがどうしても感情と関わってきてしまうんだというようなことを書こうとすれば、その描写というのはどうしても必要になってくる」という発言もあった。「漫画と文学は全く違うと思います。アニメ、漫画と言っているので、文学の世界でどういう表現が認められて、世界的な作家がどうというのは全く関係がない」と言われると、ちょっと鼻白むけど。(※)
(※ 発言はどちらも第8回専門部会の議事録から引用。「世界的な作家がどう」とは、村上春樹氏の『1Q84』を指す)
規制をするならするで、それに先だって法整備をせねばならない。検閲をするならするで、その際には、事前に、有識者なり委員会なりにはかって「有害ポルノ」と「無害な作品」の間にきっちりとした線引きをしておく必要がある。
容易なことではない。というか、きわめてややこしい。
なだらかな境界領域のどこに線を引くかで、施行前も後も何度も何度も揉めるだろう。
それでいいのだ。
世の中にはやっかいな大人たちがいて、それをどこで押さえるべきかで悩み、規制に努力している大人もいる。
それこそを、青少年に知らしめるべきだ。
「非実在青少年」は、そこを逃げている。
「めんどうくさいから、人もゴキブリもナパームで……」
というのは、実在の青少年に見せるべき大人の態度ではないように思う。
(文・イラスト/小田嶋 隆)