変革の芽:オバマのアメリカ/1 過熱する中絶論争
◇反対派が医師を射殺--大統領が「怒りの声明」
【ウィチタ(米カンザス州)吉富裕倫、ワシントン及川正也】米国の中西部カンザス州ウィチタで5月末、後期妊娠の中絶手術を行っていたジョージ・ティラー医師(67)が射殺された事件が、米社会に波紋を残している。「変革」を掲げ、人工妊娠中絶を基本的に容認するオバマ米大統領が誕生したことで、保守的な反対派は過敏に反応、中絶や同性婚をめぐる論争は一層熱を帯び始めた。自由かつ進歩的な半面、宗教心があつく、保守的な米社会の底流に走る断層と変革の芽を追った。
医師は5月31日、妻と通う教会の日曜礼拝で、案内係を務めていた際、射殺された。直後に目撃者の通報により、中絶反対の活動をしていた運送会社員、スコット・ローダー容疑者(51)が逮捕された。
「いかに意見の相違が深くとも、凶悪な暴力行為では解決できない」。事件発生から数時間後、オバマ大統領は怒りを込めた声明を発表した。ホルダー司法長官も、即座に全米の主要な中絶関連施設の警備強化を連邦捜査官に指示した。
オバマ政権の異例ともいえる対応の素早さは、政権にとって事件の衝撃がいかに大きいかを物語った。
カンザス州では妊娠第3期(28週以降)の中絶について、実施しないと「母体に回復できない障害を残す」などの場合に限り認めている。ティラー医師も妊娠後期の中絶を手掛け、死が確実な胎児を宿した母親が医師を頼って全米から訪れていた。
6月6日のティラー氏の葬儀では反対、賛成両派が動員をかけ、会場周辺では反対派が「神が殺人者を送った」と書いたプラカードを掲げ、賛成派は遺族への嫌がらせを防ぐため歩道に並び、対峙(たいじ)した。
今月7日、カンザス州セジュウィック郡拘置所の接見室。ガラス窓の向こうで通話機を通してローダー容疑者が、毎日新聞のインタビューに答えた。
「社会の考えでは有罪でも、神の前では許される」「これで彼(ティラー医師)はもう後期中絶手術をできなくなる」。殺害容疑の認否には答えずに、医師を逆に「虐殺者」「殺人者」に例えた。
さらに、米大統領選について「(中絶容認の)オバマ以外の人が当選した方がよかった」と話した。
◇中絶賛否にらみ合い
米中西部カンザス州ウィチタで中絶専門のジョージ・ティラー医師(67)を射殺したとして訴追されたスコット・ローダー容疑者(51)は、毎日新聞のインタビューに、医師こそ「殺人者だ」と糾弾した。そして「何者かが教室で子供たちを射殺すれば、警備員は力ずくでそいつを止めるだろう」と語った。
AP通信によると、ローダー容疑者はもともと妻と息子の3人暮らしで、封筒工場に勤めたが、税金を否定する反政府組織とかかわり家を出た。その後、中絶反対活動に加わり、ティラー医師が後期中絶で州の規制違反に問われた裁判の傍聴もしていた。
一方のティラー医師は、元米海軍航空医官で、亡き父のクリニックを引き継いだ。当初、父が中絶を施していたことを知り戸惑ったが、「深刻な胎児の異常が診断できた場合、女性が選ぶ権利を持つことは重要だ」と重要性を認識、信念を持って仕事を続けていた。
「要塞(ようさい)クリニック」といわれる仕事場は、道路側に窓がなく、駐車場側の窓ガラスは防弾ガラスで、防犯カメラも装備。86年に入り口に爆弾が仕掛けられ、93年には中絶反対派の女性に医師が襲撃され両腕を負傷した。
中絶反対派は毎日、クリニックの駐車場入り口で患者に中絶しないよう説得。99年には別の反対グループが隣にクリニックを開設、死が避けられない胎児のための周産期ホスピスを始め、米国を二分する中絶論議の最前線となってきた。医師射殺事件後、遺族はクリニックを閉鎖した。
中絶をめぐる支持派と反対派の「内戦」は、中絶を女性の権利として認めた73年の連邦最高裁判決を機に激化。キリスト教に基づき生命倫理を説く保守派と、女性擁護を主張するリベラル派が対立する米社会の一大論点となっている。
オバマ政権にとって衝撃だったのは、中絶反対派のブッシュ政権下では一件もなかった中絶医の殺人事件が、就任した途端、発生したことだ。オバマ大統領は「史上最も強く中絶を支持する大統領」とも指摘される。容認派の大統領への反発が暴力の連鎖を生みかねないとの警戒感がある。
中絶支持団体の全米中絶連盟によると、93年にフロリダ州で中絶医が初めて殺害されて以来、今回を含めて中絶医が犠牲になった殺人事件は8件発生しているが、今回を除けばいずれも民主党のクリントン政権下だ。
中絶反対派からは「殺人は犯罪だが、ティラー医師は報いを受けた」(フェルペスローパー弁護士)との声も聞かれている。
6月6日の葬儀で現場に駆け付けたティラー医師支持の「女性のための全国組織」カンザス支部コーディネーターのマーラ・パトリックさんは「中絶反対のブッシュ大統領から中絶容認のオバマ大統領に代わって『中絶戦争』はもっと激しくなるかもしれない」と憂えた。
米社会の分断は一層深まる岐路にさしかかっている。【米カンザス州ウィチタ吉富裕倫】